開業から時間が経ち、太平洋戦争が終わって世の中が落ち着き始めた昭和25年10月、長原前駅は開設された。付近に清嶺中学校が開校したことに因ると云われてゐる。 沿革は他所に任せるとして、田口線跡を追いかけていくとところどころ霧に包まれたやうにはっきりしない事象に出くわす。長原前駅はまさにそれである。
そもそも70年も前の状態がどうだったのか?と検証するにしろ、数少ない残された文献や古い写真からでは「正解」を導くことは困難。
取り敢えず3時間というわずかな時間だったが、現地に滞在して「私自身が独断と偏見で勝手に導き出した妄想」を記しておこうと思ふ。
現在、長原前駅跡にアクセスするには、田口側から清嶺トンネルを抜けて直ぐに左へ曲がる道(設楽町道133号・竹桑田清崎呼間線)へと入る。
寒狭川に沿って進むと、侵入口からそれほど遠くない場所、
左側に崩れた坑口(隧道入口)が進行方向とは逆側に確認できる。これが「清崎第三隧道」の遺構となる。
現在の路面より高い位置にあるが、これが田口鉄道の隧道であるのは田口線マニアには周知の事実。
2025年5月1日撮影。清崎方面より国道257号から左折、清崎第三隧道出口へアクセスする道路。
矢印付近がポータルが在ったと推測される場所。画面向こうは田峯駅へ向かって路盤跡が続いてゐる。
ここでひとつ<<ポイント>>として押さえておきたい。この坑口を抜けた向こうは田口側、つまり清崎駅方面であるということ。この隧道自体は現在の清嶺トンネルの壁面にぶち当たり、 行き止まりとなってゐる。つまり現在の清嶺トンネルに吸収される。昔の清崎第三隧道も山を抜ければ清崎駅へ向かっているわけで、現道が整備された時点で昔の隧道は姿を消したのである。隧道(坑口)と列車の進行方向の関係は不変なので、これをすべての基準とする。
私が個人的に解せなかったのは、むかし撮影された長原前駅の写真。隧道出口の左側にホームがある。それは現道257号からこちらへ侵入してきた道路上に駅があった、という事実。 侵入してきた道路右側は寒狭川であり、往年は現在よりもホーム側に土地があったはずであり、この界隈の土地の様子は今とは全く異なる様相を呈していたに違いなひ。
新国道257号や新清嶺橋の在る現在の景観が長原前駅の所在をうやむやにしている元凶であらう。
坑口出口から軌道跡を田峯方面に見ると、「山神」の石碑が建っており、これを「駅跡」と推測するサイトページも散見された。だとすれば、隧道の向かう方向は、
清崎ではなく田峯方面になってしまうのではないか?と私は邪推してしまつた。確かに「駅跡」には違ひないであらうが、石碑は軌道跡に在つて山側の擁壁を背に、
石碑の前がホームの位置だと解釈すべきであらう。
長原前駅。清崎第三隧道を出てきた列車。隧道を出てすぐに駅があった。列車は田峯方面へ向かっている。
清崎第三隧道出口の画像。ポータルは崩れ去り駅を思わせる痕跡は何もなひ。
ホーム側は廃線後、度重なる土砂災害により、崩落・流失したのであらう。
昔の路盤は現在の町道路面よりも高い場所にあったとも考へられやう。
2025年5月1日撮影。
清崎第三隧道ポータルの残骸、と言えなくはなひ。画像右側に坑口が見える。
この有様では駅跡が残らなひのも頷けやう。
2025年5月1日撮影。
清嶺トンネル、清崎方面を望む。トンネル中央付近の右側壁が、田口線清崎第三隧道との交点と推測する。
長原前駅開設当時には、この清嶺トンネルもここを走る257号線も新清嶺橋も存在しなかった、と云ふことである。
それを前提に今の景色を見なければならぬ。
2025年5月1日撮影。
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