田口線
田峯停車場 〜
清崎隧道群
半世紀余の時を超え、廃線跡を辿る
森林鉄道の中継地点でもあった
古(いにしえ)のローカル線は如何に・・・
大昔の田峯停車場全景
寒狭川第一橋梁と第二橋梁が1フレームに収まってゐる貴重な画像。
画像左側にある森林鉄道用の隧道も興味深い。(この隧道は現在でも遺ってゐる)
稲目隧道(方瀬隧道)と清崎第一隧道の位置関係から、軌道は河川を何度も跨ぐことなった。
画像には写っていないが、手前中央下には竹桑田橋が架かっているであらう。
この光景を見て、現在の田峯駅跡を訪れてみればなるほどと頷けるのである。
過去の景色が思い浮かばぬほど駅跡としての様相は変わり果ててゐると云えやう。
三河田口、清崎と並んで森林鉄道との関わりが深い拠点であった、そんな雰囲気が伝わってくる。
理由はさておき、寒狭川沿いに軌道を通したことが田口鉄道の残念な結末を迎える運命を決めてしまつた。
開業当時はそんなことを知る由もなかったのだが・・・。
その視点から田峯驛を見た時、重要な要素を含んだ驛だったのだと改めて思はざるを得なひ。
陸の孤島からの脱却
三河海老から以北、清崎までの路線は第二工期において敷設された。その経緯については他所に任せることにする。田口鉄道の恩恵を受けていない私が何を書き連ねても、
所詮は他所様の受け売りになってしまふ。当時を知る地元民にしてみれば、「よそ者が何も知らんと物を申すな!」と云いたくなるであらう。
ここでは遺構に主眼を置いて触れていきたひと思ふ。大正時代、山野を通る旧道は除き田峯を往来するための主要道路は存在しておらず、田峯を中心とした集落は町とは隔絶された「陸の孤島」のやうな存在だったのかも知れぬ。田口線も、物理的に田峯驛を「飛び石」のような位置づけとしてゐる。清崎までの最短距離を結ぼうとしていたのか、
稲目隧道を出た軌道は寒狭川第一隧道から田峯驛へ、駅構内を出ると同時に一足飛びの如く寒狭川第二橋梁を経て対岸へ移り、大木和田橋梁を抜け、清崎第一隧道へと向かってゐた。
現地を訪れて軌道がどのやうに通ってゐたかを実際に目にすれば、その意図がどこにあったのか触れられるやうな氣がする、と言ったら妄想が過ぎるだらうか。
田峯停車場跡の航空写真
今はその痕跡を見つけることが出来なひ「寒狭川第二橋梁」がどのやうに架かってゐたか?を示してみた。
国道257号と田口線軌道の経路違いが興味深い。自動車で走ってしまふと軌道跡とは交わらず、氣づかぬ儘に。
現在は新竹桑田橋が田峯交差点から対岸を結んでゐるが、寒狭川第二橋梁跡は廃線に伴い消失した。ただし
田峯驛付近の国道257号側、川底を注意深く観察すると、橋脚の台座(ピア)がひとつだけ遺ってゐる。
なぜここだけ残されたのかその理由は定かでないが、田口線の歴史を物語る貴重な存在であることは間違いなひ。
旧寒狭川第一橋梁と竹桑田橋
赤い橋が寒狭川第一橋梁、現在は田峯橋と云ふ。下の古めかしい橋は竹桑田橋で当時のまま遺ってゐる。
撮影:2025年5月1日
寒狭川第一橋梁跡
方瀬隧道を抜けると第一橋梁があり、橋を渡り切ったところが田峯停車場構内となる。
周りの景色はすっかり変わってしまったが、軌道跡として眺めると当時の様子が伺えやう。
方瀬隧道跡から田口駅跡を望む。
撮影:2025年6月25日
田峯バス停
田峯の駅舎があった辺りが現在バス停となってゐる。3系統のバス路線が走っているのは興味深い。
余談であるが、真ん中の時刻表が「田口新城線」のバス用。田口線の血統を継ぐ由緒正しい?路線と云えやう。
撮影:2025年6月25日
今も残る寒狭川第二橋梁・橋脚の台座
どう見ても、人工物であることに疑いの余地はなひ。他の台座は何処へ消へてしまつたのだらうか?
撮影日:2025年5月1日
在りし日の寒狭川第二橋梁を渡る田口線列車
一番手前の橋脚跡が、今も遺ってゐる。(前出の画像)
画像左側が田峯停車場構内へ続き、画像向こう奥は大木和田橋梁へ続く。
対岸より田峯驛跡を望む
画像中央付近が田峯驛跡となる。対岸の新竹桑田橋の接岸位置から
田峯驛に向かって寒狭川第二橋梁が架かってゐた。こちら側に当時の痕跡は
全く遺っておらず、知らなければ旧橋梁があったとも気づかないであらう。
撮影日:2025年5月1日
清崎第一隧道へ向かう
寒狭川第二橋梁を渡ると軌道は河川沿いを北上し、清崎方面へ向かう。
紅葉の季節には、車窓から素晴らしい景色が眺められたと云ふ。
撮影日:2025年5月1日

大木和田橋梁
軌道をしばらく進むとIビーム橋が待ち受ける。長さは短いが立派な造りである。
上の画像は横から撮影。橋桁は思いのほか高い所に架かってゐる。向こうには寒狭川が見へる。
撮影日:2025年5月1日
寒狭川沿いの築堤
清崎方面へ向かう軌道は立派な築堤の上を走っていた。
このまま清崎第三隧道まで進んで行けば・・・・・
撮影は田峯方面を望む。
撮影日:2025年5月1日
清崎方面に向かう軌道跡
荒廃具合から過ぎた年月が伝わって来やう。路盤跡からは木々が伸びて居る。
撮影日:2025年5月1日
起点から16q付近
ラストランを2日後に控えた昭和48年8月29日、台風の影響で道床が崩落した地点。
国鉄飯田線(現JR飯田線)も各所で寸断されたと云ふ。
この災害で、最終列車は三河海老・本長篠間の運転にとどまることになった。
この先、300mほど進めば清崎第一隧道へ届くのだが・・・
渇水期に川岸を辿って清崎第一隧道手前(田峯側)の橋梁跡へ向かってみたひ。
撮影日:2025年5月1日
無名の橋梁跡
清崎第一隧道・田峯側坑口と大木和田橋梁の間にある名無し橋梁。画像は田峯方面を望む。
この景色の先が崩落場所となる。
撮影日:2025年5月1日
道床崩落個所
大木和田橋梁の先、清崎第一隧道へ向かう途中にある崩落場所と思しき地点。
わずかに残ってゐる石積みが痛々しく、その規模を物語ってゐる。
崩落個所の対岸(国道257号側)から望む。
廃線後の大雨などにより、当時よりも酷く崩れてゐるやも知れぬ。
撮影日:2025年6月25日
在りし日の田峯停車場構内
列車のヘッドライトが点灯してゐるので、上り列車(三河海老・本長篠方面)であらう。
駅名標の隣には人が立ってゐる。画像右淵には貨物用ホームがわずかに写る。
画像向こう側は寒狭川第二橋梁へと続いてゐる。
同位置からの景色
上の画像、列車が映ってゐたあたりの現在。
以前の駅構内敷地には建物が建ち並び、当時の様子は感じられない。
道路は国道257号。清崎方面を望む。
撮影日:2025年6月25日
この先、清崎隧道群を辿つて行かうと思ふ。
Next Stop 長原前