旧 田口線
長原前 〜
清崎停車場
半世紀余の時を超え、廃線跡を辿る
Chase the Shadow of OLD Taguchi Railway
長原前停留所を推測する
田口線跡を追いかけ始め田峯〜清崎界隈を訪れるやうになり、それでもなかなか核心に迫れなかったのが長原前駅跡である。崩れた坑口の写真や、竹藪にまみれたスペースを「このあたりに駅があった」といったレポートが散見され、現存当時の画像を見ても「現在」の状況に照らして「どのやうなレイアウト」になってゐたのかが全く見えてこない・・・それが長原前駅の第一印象であつた。
清崎第三隧道にばかりスポットがあたり、この駅(停留所)全体の姿がおざなりにされているやうでもあつた。
田口線遺構を追いかけ始めたキッカケは、本長篠 - 鳳来寺間の軌道はどこを通ってゐたのか?という単純な理由だったが、今となっては探索熱もヒートアップし各遺構の現在の姿から当時を思い浮かべることが出来るやうにならないと解せなひほどになつた。そんな視点で長良前駅跡を眺めてみやうと思ふ。
現在の地理的要素を忘れる
長原前駅跡を訪れるにあたり、まず既存概念を捨てる事が必要であらう。田口線が通った当時、現在の国道257号、これが通る新清嶺橋や清嶺トンネルは存在しなかった。旧道巡りをすれば、なるほどと頷けやう。また長原前駅が設営されたのは昭和25年10月で、三河海老-清崎間が開通してから20年後の事。
敷設時に計画されていたわけでなく継ぎ足し感は拭えない。
時間軸に沿って考へてみると、清崎第三隧道の田峯側坑口には当初長原前駅は存在していなかった。繰り返すが現在の新清嶺橋も清嶺トンネルも無かったのである。
町立清嶺中学校の開校に伴ひ、長原前駅が設置された。継ぎ足し駅として第三隧道出口に作るのなら、現在の町道133号に沿い中学校側から隧道出口まで道を引かねばならぬ。重複するがこの道は長原前駅までで、その先は必要ない。理由は言わずもがなであらう。現在の軌道跡が第三隧道坑口へ向かって右側が高いのはこのためと云へやう。
現在の清嶺トンネルと国道257号
画像は長原前駅跡へアクセスするポイント。トンネル向こう側は清崎方面、トンネルを抜けすぐに左折。
町道133号を田峯方向へ進むと長原前駅跡へ。田口線現存当時はこのトンネルも国道257号も、新清嶺橋も存在せず。
赤い線のやうに現・町道133号が清嶺中学方面から、長原前駅へと続いてゐた旧道があるのみで、他はなひ。
清嶺中学校側から田峯側を望む
当時は橋などなく、右側は寒狭川の堤だつた。学生はこの道を行き来したであらう。
清嶺中学校側から長原前駅跡を望む
現・国道257号を渡ったころ、正面あたりに長原前停留所の背面が見えたはずであらう。
長原前駅跡を考察する
隧道ポータル横の擁護壁。石積みではなくコンクリートブロック製なので、廃線後の町道整備に伴い
造られたものと推測する。緩んだ斜面からの土砂を防ぐためであろう。現在も残る路盤横の擁壁は石積みである。
長原前駅跡を考察する(想像図)
当時の写真と照らし合わせて、現在の状況に加筆してみた。各々の尺度がデタラメだが勘弁いただきたひ。
今でこそ町道として長原前より田峯側へ続いていく道路は、当時停留所(ホーム)までであっただらう。
営業当時の長原前停留所
当時の写真と比べてみると、いろいろ興味深い部分が次々と見えてくる。
現在の清崎第三隧道坑口
当時の様子が分からないほど崩壊した長原前の隧道出口。トンネル前に駅があった・・・と言われても
到底納得出来るものではなひ。初めて自分の目でこの景色を見たときには、一体何がどうなっているのか、
皆目見当もつかなかつた。廃線後の被害も重なって昭和43年の台風被災後の様子とは全く異なるであらう。
やはり一番の疑問は、現在の町道路面から見た坑口の高さであつた。入口?が土砂で埋まり高くなっているため、
隧道内の雨水が掃けず池のやうになってゐる。余計な流入がないためか溜まった水の透明度は非常に高く驚かされた。
第三隧道坑口から町道を望む
画像から目線の高さが分かるであらう。倒木とトラ柵が見へているが、ホームはこのあたりにあったと思われる。
同時に現・国道257号からの導入路(当時の駅へのアクセス道路)もここで終わってゐたはずだ。
積み上げた石々が露わになったポータル痕が痛々しい。
山岳鉄道故に軟な造りではないのにこの有様。土砂崩れの威力を物語ってゐる。
石積みから工事に携わった人々の思いが伝わってくるやうだ。
隧道内の様子。水面に太陽の光が反射して壁面を照らしている。
水の溜まっている様子が伺える。
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