今更だが、昭和43年8月31日を最後の営業とし、豊橋鉄道・田口線(旧 田口鉄道)は40年の歴史に幕を閉じた。その名前の所以とも云ふべき場所が、
終着駅の三河田口停車場であらう。
田口線の中でも三河田口駅は数奇な運命を辿った。その最たるものが廃線となる前に、事実上廃駅となってしまったことに他ならなひ。
田口の人々に求められていたのに・・・である。昭和40年9月の台風災害(台風24号)によって三河田口−清崎間の路盤(線路)が流出してしまい、
運行不可となった。それ以前、昭和34年9月26日の伊勢湾台風時にも甚大な被害を被ってゐる。
多額の出費を強いる修繕工事を行っても回収する見込みがなく、田口−清崎の区間を表向きには「運転休業」、
事実上「廃線区間」とする他なく、残念なことに田口線廃線案が濃厚だったため復活させない方針だったと云ふ。代わりにバスが清崎駅から田口までを代行運転することになったが、皮肉にもこれが今に至ってゐる。
蛇足になるが、廃線前日となる昭和43年8月29日、またしても台風10号による土砂災害により、田峰−清崎間の路盤が崩落し通行不可となった。寒狭川沿いの斜面に路盤を通したせいか、最後まで土砂災害に泣かされた鉄道だと云えやう。
時は流れ、廃線より40余年が経ち設楽ダム建設工事開始に伴ひ、三河田口駅付近には侵入出来なくなり廃線跡の探索も叶わなくなってしまった。令和7年5月現在、駅周辺の様相はすっかり變貌しており、辛うじて第三大久賀多隧道がその姿を留めているに過ぎなひ。三河田口駅舎のあった場所は、ダンプカーなど大型工事車両が行きかう道路へと姿を変え、当時を彷彿させるものは跡形もなく消え去ってゐる。三河田口駅のあった場所は設楽ダム堰堤の最低部に位置してゐるのが、何とも悲しい。
私自身、田口線に興味を持ち始め廃線跡を辿り始めたのは2024年11月からである。すでに田口駅周辺にはアクセス出来ず大久賀多第二隧道を抜け数百メートル進んだところで通行止めとなってゐた。先達諸氏がネットに上げてくれた画像を眺めるのが、私の三河田口駅探訪である。。。かの地へ足を運べないのが残念でならない。
ホーム近影。テレビ番組のロケ(取材)で、六角精児氏がダム工事中のこの地を訪れ、
更地になったがホームの石垣だけが露出しているのを見つけてコメントしていたのを思い出す。

駅構内より江ヶ沢橋梁・大久賀多第三隧道方面を望む。
ホーム南端。貨車用安側線?(貨車用ホーム?)を望む。
三河田口停車場と田口の町とを往来したボンネットバス。時代の古さを感じさせてくれる。
軌道跡が道路に転用された状態しか知らなひ私には、バスの向こう側(南側)にも道が続いていさうな気がするが、
県道33号から駅前で袋小路となっていたであらう。
三河田口駅から田口の中心街までは連絡バスが行き来したと云ふ。それは知ってゐたが、果たしてバスが往来したであらう道を辿ったことがあるか?というと「否」である。
通行止めを知らせる表示板を見ると設楽警察署あたりから33号線を通って田口駅界隈へ繋がってゐる。ともすれば、この道を辿れば駅近くまで行けるのではないか?とかすかな希望も見えてきた。
実際にこの道を通ってみて気づいたのが、田口線を延伸し中心街まで鉄道を引くのが何とも難しいと云ふ事実だった。素人目でも痛感する。
鉄路を別ルートで引くにしても、この急こう配をどうすればよかったのだらうか?と思わずにはいられない。現・国道257号を走っても「登坂車線」を作らなければならなひほど登り勾配がきつい。そうかといってスイッチバック方式で実現しやうとすれば、軌道延長は相当なものになってしまふ=莫大な工事費用が必要となる。場所によっては隧道を通さなければならなかった・・・のかも知れぬ。
どこぞのやうにケーブルカーでも牽ければそれも選択肢のひとつになったであらうが、点と点を結ぶ線を一直線に通すことは、田口の地形では無理であった。
ネット画面を見てゐるだけでは知り得ない、その実現の可能性の低さは体験してみないことには分からないであらう。ましてや清崎−田口間の工期は、満州事変が起きた頃に重なるのである。中心街への延伸が決定してゐたとしても、開通まで漕ぎつけたのだらうか?
今、33号を通ると途中、テーピングを施された木々を見つけることが出来る。これは設楽ダム完成時における湖面の高さを示すものだ。つまり、この位置まで水が貯まりますよ、云ふこと。田口中心地から見ても、それほど遠くない位置にあたらめて驚かされる。人口減少が叫ばれている昨今、これだけの規模を誇るダム湖がはたして必要なのだらうか?と考えさせられてしまふのだが・・・。